巻 菱湖 まき りょうこ
   

大漠風塵日色昏
紅旗半卷出轅門
前軍夜戰洮河北
已報生擒吐谷渾
王昌齡
從軍行 (其五)
128.5p×50.5p

安永6年(1777)生〜天保14年(1843)歿  
 越後国(新潟県)巻町の人。本姓は小山氏であるが、出生地である越後巻驛にちなんで巻姓を称した。名は大任。字は致遠。号は初め弘斎、巻の近くに鎧湖という湖があり、菱(ひし)という水草が多く、また鎧湖は菱形であったため、のちに菱湖と改号した。
 幼くして父を失い、寛政6年(1794)18歳のとき、江戸に出て、亀田鵬斎(1752〜1826)の門に入り、漢詩および書法を学び、やがて詩人・書家として大成した。特に書家としては、文化・文政以後の江戸の書壇を市河米庵二分した。米庵が上流に多くの門人を持ったのに対し、菱湖は鵬斎の衣鉢をついで下町に人気を博した。彼は、古今の碑・帖で臨模せざるもの無しという。各体の書をよくし、楷書は歐陽詞、行書は李北海、草害は≪十七帖≫、孫過庭の≪書譜≫を学び、書を素直に平明に書いた。そのため評判がよかったのではないかと考えられる。
 ある時、東海道を旅行していた折、駿河国の府中(静岡市)の旅館に泊まっていると、ある客が、誰が泊まっているのかと尋ねたので、旅館の主人が江戸の書家の弘斎先生が泊まっていると答えると、客は偽字を書く弘斉かといった。菱湖が客に会うと、その人は山梨稲川(1771〜1826)であった。稲川は説文学者で、漢字に関して「考証精確」であった。これよりのち、菱湖は説文を学んだ。説文を学んだので、説文学者の松崎廉堂(1771〜1844)と親しく往来した。
 文化5年(1808)32歳のとき、築地の軽子橋のほとりに居を占め、粛遠堂と称して書法を教授した。のちに鉄砲洲に移った。菱湖は書家であるとともに詩人であった。
 文化10年(1827)51歳で上洛の際、近衛家秘蔵の賀知章≪孝経≫を披見することが出来た。これによって唐人の用筆の妙を知った。このことが、その後の彼の書に大きな影響を与えた。彼は趙子昴・董其昌とともに晋唐の書を学び、その書風の清勁婉美なことで称せられ、菱湖流として一時に流行した。
 菱湖は酒を好み、よく飲んだ。そのためか、晩年中風になった。そして書を書くとき手がふるえたので、点画が鋸の歯のようになったが、それが面白いといって持て囃され、菱湖の書家としての名声はさがることがなかった。
 菱湖には弟子が一万人もおり、また手本をたくさんだしているので、菱湖の手本によって書法を学ぶ者がたくさんいた。菱湖の書風は江戸時代の末から明治の初めにかけて広く流行した。菱湖の弟子には萩原秋巌(1803〜1877)・生方鼎斎・中沢雪城の三傑をはじめ大竹蒋塘(1801〜1858)などのすぐれた弟子がたくさんいたので、その門流は市河米庵の門流以上に栄えた。
 菱湖・米庵および京都の貫名萩翁は「幕末の三筆」といわれている。著書に『十体源流』『書法類釈』などがある。天保14年に67歳で亡くなった。
 引首印は、白文の「曽経御覧」、「菱湖大任」の左に、白文の「巻氏致遠」、朱文の「大任之印」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%BB%E8%8F%B1%E6%B9%96
http://www.maki-ryouko.jp/main/index.html
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92_(%E5%B0%86%E6%A3%8B)


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